「Kカルチャー」
<書評> 「東大で上野千鶴子に ケンカを学ぶ」 遙洋子著
「カマトト」という言葉がある。カタカナで書くことが多いためまるで外来語のようであるが、れっきとした日本語。しかも、江戸末期からあった言葉である。「カマ」は蒲鉾、「トト」は魚のこと。ある遊女が「蒲鉾はトトみたいに海で泳いでるの」と言ったことが語源らしい。
芸能界という若ければ若いほどもてはやされ、その若さの延長上にある無知さえも評価の対象となる世界に身を置く筆者が、「学問」でのみ評価される両極端の世界である上野千鶴子のゼミにてフェミニズムを学んだ体験記とその持論がこの本である。
「タレント」である筆者が日本の最高学府―東大にて、周囲の学生と比べ「教室の中で一番アホ」というコンプレックスと鋭利な刃物のような教授、上野千鶴子に戦々恐々としながらも悪戦苦闘する姿は、まさに抱腹絶倒。華やかな世界で会得したメイク法を学生に伝授するのを交換条件に専門用語の解説をしてもらったり、客員の学者の論文発表の司会を急遽任命され四苦八苦する等のエピソードが随所ふんだんに織り込まれており、その小気味よい軽快なテンポの文脈に誘われ読みすすめると、知らず知らずのうちに、彼女が三年間で培ってきたオリジナルのフェミニズム論へとひきこまれる。
当初、私はフェミニズムが一般化・浸透化させたといっても過言ではない「セクハラ」や「ドメスティックバイオレンス」「アンペイドワーク」といった言葉をシンボリックに捉え、この学問は単純に男性上位 社会に豪快に反旗を翻すのが主たる論旨だと漠然と考えていた。しかし、本書を読み終えて曲解だということに気付く。どうやらそう一筋縄ではないらしい。「結婚=幸福」「母性本能」といったあらゆる現構造主義に懐疑的視点をもつことを出発点とし「対幻想」を打ち砕くことに主たる論旨があるようだ。男性上位 社会にもの申すのは単なる一環に過ぎない。
男に媚を売り胸元をちらつかせる生き方を肯定せずとも全否定できずにいる曖昧なスタンスをとる私とフェミニズムは、対極に位 置する存在である。しかし逆説的に言えば、私はこの学問が指摘する構造社会の典型的落とし子であり、「フェミニズム」という学問とは相対し対極しているようで、実は最も身近なテーマなのかもしれない。
正直、混乱した。面食らった。だが、その自己分裂こそ一筋の光明・突破口のように思えてならない。
かつて、筆者は「絶対的なたったひとつの解」を求め上野千鶴子の元へと扉を叩くが、結果 、習得したのは「絶対的なたったひとつの解」信仰の危険性であった。絶対的な幸せ・絶対的な真理、それら既存の枠がいかに人間を縛りつけているかという発見。
本書を通じ終始一貫されている根底のメッセージは学問への飽くなき追求の楽しさ・大切さである。東大にて上野千鶴子に学んだ言葉の格闘技である議論、ケンカの十箇条として「開き直る」「声を荒げない」と戦術的手法が収められているなか、十条目は「勉強する」という項目で締められている。改めて、これなくしては成立しないと勉強の最重要性を強調している。
だからこそ、前述したような数々のエピソードや苦労話も読み手としてはさほど深刻にならず破顔一笑できるのであろう。その確固たる証として、ページを読みすすめていくうちに「教室で一番アホ」な筆者が徐々に逞しくなり、最終章では過去に自分が受験に失敗した大学の教壇に上がるまでになる。しかも、現地にはマネージャーを従えベンツで乗りつける。このタレント魂が何とも痛快である。
先日、ブラウン管に小泉純一郎に食ってかかる筆者の姿があった。まさにケンカ腰。上野千鶴子仕込みの、言葉の格闘技である議論、ケンカの真髄をこれから見せてくれるのだろう。楽しみである。 (華林)
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