「Kカルチャー」
<映画評> 『GO』 行定 勲監督
バスケットコートの真ん中に屹立する少年。どうやら試合中らしい、が様子が変だ。ボールが床を打つ音やシューズが床と擦れる音は遠くに聞こえ、代わりに彼の内なる声が続く。「差別 ・偏見・隷属、何じゃそりゃ・・・」。
切れた。
ライオンのような髪を振り乱し、次々に跳び蹴りを喰らわす。チームメイトだろうが敵だろうがお構いなし。吠えに吠える。突然、時は三年前に遡る。
地下鉄の構内。列車が到着するというのに、線路に降りる彼。いかつい先輩の「行けー」の号令。走る、必死に走る。タイトルの『GO』。まいった、のっけから持ってかれちまった。
原作は直木賞を受賞した、金城一紀の半自伝的同名小説。
杉原(窪塚洋介)は日本の高校に通うコリアン・ジャパニーズ(という表現を使っている)。中学まで朝鮮学校に通 う。オヤジは元プロボクサーで、元マルクス主義者。済州島出身の一世で、なぜか突然、ハワイに行くために朝鮮から韓国籍に変えた。
ここで描かれる朝鮮学校は二十年位前のそれと考えた方がよい。一部誇張あり、一部正しい。私は一九七四年生まれで中学まで朝鮮学校に通 ったが、冒頭に登場するような命がけの肝試しもしないし、警察を国家権力の犬と見立てて襲撃するなんて事にも、今の時代感覚では違和感を覚える。
一方、描写される朝鮮学校でのひどく異様な日常生活、例えば、ホームルームの代わりに行われる「総括」の時間。編隊を組み校庭で練習する「行進」。
客観的に見れば特殊な環境にいながら、私は高校という日本人社会に飛び込むことを躊躇した。正直、孤立が怖かった。しかし、入ってみた日本社会は拍子抜けするほど寛容であり、同時に無関心だ。杉原が直面 した「挑戦者」達も現れない。
さて、窪塚洋介。観る前までは、今時の顔した旬な俳優くらいの認識だった。が、いい。
親友を凄惨な事故で失い、共通の趣味だった寄席で一人静かに泣く。溢れる涙の行方には、彼から借りっぱなしの本のページ。
名前ってなに?
バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても
美しい香りはそのまま
−『ロミオとジュリエット』
ぐっときた。
杉原はGFの桜井(柴咲コウ)と初めてホテルに入り、自分の国籍を告白する。「中国や韓国の人は、血が汚い」と父から教えられてきた桜井は、震える己の体を強く抱く。この映画の核なのに、その顔はポンズ・ダブル・ホワイトのCMで見た、黒ずくめの男を銀行強盗と見紛って恐れおののく、まさにそれ。オーマイ。
クライマックスは、北に帰ったオヤジの弟が死んだという連絡を受けた日の場面 。オヤジは珍しく酒に酔い、杉原を迎えに来させる。帰りのタクシーで、故人との思い出話を聞かせる。昔カニをうめ〜うめ〜と泣きながら食ったなぁと。バックにはピアノとストリングスの切ないメロディー。
ここは泣くところかと観るものに思わせた瞬間、「だっせー!」と杉原。消沈ムードは吹き飛ぶ。「カニが食いたきゃ革命だって何だって起こしゃいいんだ!」。オヤジが殺気を放つ。タクシーの運転手をレフリーに公園で拳闘。
そうだ、この映画はこうでなきゃいけない。恨みったらしいところは皆無。説教臭いところもない。前を向いて歩こう的な強引さもない。このドライ感が、よく似合う。
ラストシーンのクリスマス・イヴの夜、電話が入り、先に待っていた桜井に、杉原は吠える。「俺は何人だ、何もんだよ」。在日韓国人と答える桜井に、どうして何の疑問もなく〈在日〉だなんて呼ぶのか、となお吠える。〈在日〉って呼ぶってことは、いつか出ていくよそ者って言ってるようなもんなんだぞ、と。
なるほど。杉原が自分のことをコリアン・ジャパニーズと言う訳が、ようやく理解できた。
(琴志夏/ミュージシャン /東京)
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