MESSENGER 梁石日さん
在日文学の陰影
−僕たちは去年、在日文学史を通して在日像を抽出しよう試みました。一世の作家である金史良の「光の中に」で表されているのは、民族や民族の解放に等置されるヒューマニズムだと理解しました。しかし戦後、民族が解放して、では在日の苦悩がなくなったかというと、そうではない。そこで二世の作家たちが登場するわけですが、なかでも梁さんの作品には土着の在日の生活世界、圧倒的な身体性を強く感じます。作家活動のキーは何なのでしょうか。
それはね、在日文学の歴史にも重なってくる話だからね。金史良の作品というのは在日文学でもあると同時に朝鮮文学でもある。彼が日本で活躍した時期というのは三年ちょっとくらいなんですよね。「光の中に」が芥川賞候補になったのは、戦時中ですから珍しいことです。その当時、朝鮮は植民地ですから朝鮮人は三等国民であって日本人よりは劣る民族であるという風潮。そんな中で金史良を芥川賞候補にしたんですから。それ以外に当時の日本の軍国主義的な戦争に翼賛した朝鮮人もいたわけですけどね。
金史良はその後北朝鮮にも行って、向こうでも作品を書いています。在日文学の場合は金史良の前半の部分を引き継いでいますね。最初の人が金達寿さん。彼は在日一世で当時の有名な人だから在日の問題とか朝鮮の問題とかあったら、マスコミはみんな金達寿さんのところに行ってコメントをもらってた。金達寿さん自身も言ってるけど、彼は志賀直哉なんかの影響を強く受けてるのね。つまり在日文学というものが日本文学の影響をつよく受けていたということがあるわけです。だからといって達寿さんの小説が白樺派的な小説なんて僕はいわないけど。日本文学の影響というものを避けがたかったというのもある。
それに達寿さんは「民主朝鮮」「新日本文学」などの雑誌とも非常に密接な関係があって、当時の日本の左翼の人間関係や思想がだぶってたのね。在日文学で欠かせないのが、実は組織との問題。この組織との関係が在日文学に非常に大きな陰影を作っているわけです。七〇年代に入って金石範さん、それから李恢成がでてきて、欠かせないのは詩人の金時鐘ですね。この人たちは全部組織におったわけですよ。組織にいたんだけど五〇年代後半ぐらいから批判されるわけ。金達寿さんも一九五〇何年かな、岩波新書から「朝鮮」という本を出したのだけど、組織からものすごく批判された。なぜかというと、金日成将軍を称えていない、革命路線から外れていると。そのころ大阪で「チンダレ」という雑誌があって、これを金時鐘氏が主宰してたわけ。金時鐘氏は当時、関西青年文化部長やったの。えらいさんだった。同時に共産党員でもあったわけ。
なんで在日朝鮮人が共産党員になったかというと、在日朝鮮人は本来、共産党をつくってもいいわけですよ、在日朝鮮共産党として。しかし当時、ソ連のコミンテルンが世界の共産党を統括してたわけですね。コミンテルンの方針というのが一国一党主義。それで在日朝鮮人の場合は日本の共産党員になったわけ。そこに民対部(民族対策部)というのがあって、日本の革命に参加してこれを成就させて、その暁には朝鮮人の革命があるという論理だった。当時の在日の左翼的な人たちは総連にも入っていたけど、同時に日本共産党員でもあった。共産党は戦後まもない頃、火炎瓶闘争をやって徳田球一なんかは武力革命を唱えてたの。これがマッカーサーによって非合法化され地下に潜り、徳田球一は北京で亡くなったんだけどね。穏健派とこの極左主義がものすごい勢力争いしてたわけですよ。ところが五十五年に保守大合流のとき在日朝鮮人も共産党から出て行った。なぜかというと、その数年前に周恩来がインドのネルー首相と会談し、平和5原則を唱えるわけ。この中に内政不干渉という一項目があるんです。毛沢東は中国には中国独自の革命法があるんだと、コミンテルンと対立したの。ところがソ連というのは当時は世界の絶対的な力を持ってたからね。それに対して周恩来は内政不干渉というのを言った。在日朝鮮人というのは外国人だから、日本共産党のなかにいると日本の政治に対して内政干渉になる。だからでていったの。
−その世代っていうのは梁さんよりも少し上の世代ですか?
いや。僕よりずっと上よ。
−梁さんが青年期二十歳くらいで朝鮮戦争のその後を経験されるんですね。
僕が「チンダレ」に入ったのは五十七年頃。朝鮮戦争が終わって四年くらい。入って一年目くらいに金時鐘が総連批判をやりだしたのよ。「大阪総連」という詩書いてさ。非常に組織を揶揄った。それを組織が批判した。「チンダレ」全体も批判される対象になったわけね。結局「チンダレ」は二〇号で廃刊になって、それからちょうど一年後に「カリオン」という同人誌をだしたの。これはたった三人しか残らなかった。
−メンバーは梁石日さんと?
金時鐘とね、それから鄭仁いう人。創刊号の表紙に「祝 帰国船」と書いてね。たったA四八枚くらいの雑誌。僕はそこで「方法以前の抒情」という許南麒批判を書いてるの。許南麒という人は当時総連の副議長で歌舞団を作った人。総連のナンバースリーくらい。許南麒ブームというのがあったくらいに、日本の左翼とか文化人がものすごく彼を評価していた。「朝鮮冬物語」とか「巨済島」などいい詩集があるんですよ。ただ本質的にはくだらん詩だけど。(笑)この人を僕が批判し、かなり反響を呼んだの。そういうことで私も組織の批判の対象になってきたわけですよ。それで僕らは組織から離れていくわけですね。金達寿さんも批判されていて組織から離れていく。その頃、金石範さんは組織の中にいて、朝高の国語の先生になった。それから東京に来て、朝鮮新報にいたんだけどうまくいかなくて、結局、組織でちゃった。李恢成も、まだ朝鮮新報におったけど朝鮮新報の中にいると小説が書けないわけよ。というより、書かせてくれない。書いても発表できない。日本語で書いても載っけてくれないの。そういうわけで、李恢成も組織を出ちゃう。みんな組織を出てから書いてるのよ。だから在日文学というのは、一世から二世にかけてみんな組織との深い関係があったわけですね。その深い組織との関係の中での小説とは政治小説になるわけです。在日文学は祖国統一とか、李承晩打倒とか、それから民主化闘争に我々がいかに支援できるか、ともにできるかという文学になってくる。その時私はすでに文学の世界からずっと離れていました。二十二歳から詩も書いてないし、二十五歳で結婚したしね。
(後略)
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