MESSENGER 川田龍平さん
インタヴュアー:琴玲夏/Photo:金朋央
裁判を通じて見えたもの
―二〇〇二年九月一七日以降、北朝鮮報道や拉致事件により在日コリアン自身が脅かされているという危機感が高まる中、在日が声を出すということをこの雑誌でも取り上げてきました。ですが今回は、ここで一度振り返って、普遍的な人権という別次元の観点から考えたいと思い、川田さんにお話を伺うことにしました。現在川田さんが取り組んでいることから川田さん自身がどういうことを感じているのか、日本の今の状況についてどう見ているのかということをうかがっていきたいと思います。まず『人権アクティビストの会』についてお聞かせ下さい。
国を相手にした裁判は勝てないといわれる中、何としても勝ちたいという思いで実名を公表して裁判闘争をやってきたのですが、薬害エイズの問題を強く強調してきたために、薬害エイズと性行為により感染したエイズとの間にすでにあった差別をさらにいっそう強めてしまう結果になりました。感染経路が薬害か性感染かにかかわらず、基本的にエイズという病気に対する差別があって、薬害エイズの中にも性行為によって感染させる二次感染のケースが生じていくということがあります。差別をなくしていこうという場合、薬害の問題だけでは解決できません。
いろんな所に行って薬害エイズと差別の問題を取り上げていますが、「川田さんと直接会ったことで差別をしてはいけないと思った」という意見や、「川田さんと会って普通の人だと分かったから、差別をしてはいけないと思った」ということを感想として耳にします。そういうのに接したときに、じゃあ普通の姿をしていなければ差別をしてしまうのかと考えさせられました。直接に出会わなければ差別をしてしまうということでは、HIV感染者・エイズ患者がたくさん増えなければならないということになります。アメリカのように身近なところにエイズ患者がいることで差別がなくなっていくよりも、出来るだけHIV感染者やエイズ患者を増やさずに差別もなくしていきたいし、直接に出会わなくても差別の問題を解決していくためにどうしていったらいいかと考えたときに、エイズだけのことを訴えていっても差別はなくなっていかないと思ったんですね。
さらに、エイズだけではなくて様々な病気による差別、ハンセン病や身体障害、現在、非常に増えてきている精神障害者に対する差別の問題、病気ではないけれども性的なマイノリティーである同性愛や性同一性障害であることで差別を受ける人々、生まれた地域によって差別をされている部落の問題、アイヌや沖縄の問題、在日コリアンや外国人に対する差別などもマイノリティーに対する差別の問題っていうところで共通しているものがあると思うんですね。決してこれはエイズだけの問題ではないんだ、差別を受けている人たちが一緒に連帯していけるような場所が必要なんだと思い、『人権アクティビストの会』を裁判が終わったときに立ち上げたんです。HIV訴訟の原告団が自分たちの差別状況を何とかするために薬害エイズの被害者だけで組織して取り組んでいく形もあるんですが、それだけやっていたんでは内にこもっていきがちで、差別をなくしていく方向にしていくのは難しいと思ったので。差別っていう根本的な問題をなくしていくことをしっかりやっていかなければいけないのではないかと思ったんです。性行為で感染した人とも一緒にやるし、ハンセン病の元患者さん達ともシンポジウムをやったり同性愛の人たちやアイヌの人たち、マイノリティーの人たちと一緒に差別をなくしていく活動をつくっていきたいなと思って会をやっています。
また、特に日本においてさまざまな差別をなくしていくときに、女性に対する差別の問題を解決することが一番重要ではないかと考えています。少数者ではない女性に対する差別の問題が未だに多く残されていて、これが解消されていかなければ本当の意味でこの差別の問題は身近な問題として捉えられないのではないかと思っています。誰にとっても身近な存在である母親が常に差別される存在であるということ、自分自身がその立場にあったらどうなのかということを考えられるかどうかですよね。想像力という点において差別をなくしていくためには、教育が大事なのではないかと思っていて、そういう意味で自分の活動と自分の仕事とをやっていけたらいいなと思っています。ただ『人権アクティビストの会』っていうのはそれほど個々人の結びつきが強いわけではなく、会としての声明を出したりするんですけど、基本的にはそれぞれの人々がアクティビストであって、それぞれの立場で活動していく中で緩やかなネットワーク的なつながりにもっていくという活動スタイルになっています。現在、ツアーを企画したり講演会やシンポジウムを開いたり、いろんな交渉に行ったりしてます。
―川田さんが裁判をおこしたのはいつですか。
一九九三年、高校三年の時にはじめて提訴したんですが、実際には一九八九年に一回目の裁判自体は始まっていたんですね。僕は最初から参加したわけではなくて、途中から原告になりました。実名公表したのは九五年です。
―実名を公表するまでに時間があったと思うんですが、実名を公表しようと思うまでには?
裁判自体が匿名裁判で、異例でした。というのは、裁判は原則実名でおこさなければいけないんだけれども、薬害エイズの裁判に関してはエイズに対する差別や偏見が強いということで特別に認められて、原告は番号で呼ばれ、裁判をおこしたことが人にわからないような形で始められたんですね。だから九三年に僕が提訴したときも匿名で、自分の裁判に行くときも学校には医者に行くってウソをついて傍聴してたんですね。
で、高校生の時ですけれども、裁判所で出会った弁護士や傍聴に来ている当時からの支援者が、もちろん自分の感染のことを知って接してくれている、そういう自分のことを守ってくれる人たちがいるんだってことがわかってきて、段々自分から自分の感染のことを話せるようにようになっていって、そのとき付き合っていた友達に自分の感染のことを話しました。その友達は「そのことを知ったからといって嫌いにはならない」と言って、そのまま付き合ってくれました。それと三年間同じ部活でやってきた友達にも自分の感染のことを話したんだけれども、「昨日のお前と今日のお前に変わりはないんだから今まで通り付き合うよ、同情しないからな」って彼が言ってくれたんですね。僕は彼が言ってくれた「同情しない」という一言がすごく嬉しくて。自分が感染しているってことを話したことによって、相手がそれを負担に思ってしまったり、深刻に考えてしまうような同情はして欲しくないと思っていたのと、かわいそうとかお気の毒って思われるのはとてもいやだったんですね。それってどこか他人事であって、自分と相手との関係は対等ではないような気がする。だからその友達が言ってくれた言葉がすごくうれしくて、段々と自分の周りにうち明けられるようになっていったのが高校を卒業した九四年なんですね。
九四年は二年に一回開かれる国際エイズ会議が横浜で開かれた年で、薬害エイズの真実という集会が開かれて、いろんな国から薬害エイズ感染被害者の人たちが来て話をしました。そこで出会った人たちは自分の国でも名前と顔を出して活動しているんだけれども、日本の、特に東京の薬害エイズの被害者達っていうのは一人も名前も顔も出していなくて、その集会で話をするときもスクリーンを立てて後ろから光を当ててシルエットで訴える形をとっていたんですね。千人規模の集会だったんだけど、海外から来た感染被害者が堂々と話をしているのを見たときに、どうして日本ではそれが出来ないんだろうと強く考えさせられました。自分も隠れて生きるんではなくて堂々と生きていきたいと思って、ついたての前に出て話をしてもいいと言ったんだけれども、一人だけ前に出るのはおかしいってことで出来なかったんですね。だけど、海外から来た同じ感染被害者の人たちと交流をして、「ノー・モア・サイレンス、もう黙っているのは止めよう」と約束し、不特定多数の前で被害者であり原告であることを話しはじめました。もちろん公表できない人の気持ちや立場を尊重するのはとても大事だと思っていました。そして、その年はまだ浪人していたので、大学が決まった翌年の九五年の三月に、マスコミの前で自分の感染のことを実名公表したんですね。エイズに対する差別や偏見をなくしたいという気持ちが強かったのだけれども、なによりもそうすることによって裁判に勝ちたかったんですね。
以下、省略。
つくられる「差別」の中で
転換点としての沖縄
未来のために今できること
川田龍平(かわだりゅうへい)さん
東京HIV訴訟原告 松本大学非常勤講師 人権アクティビストの会 代表 龍平学校ーPEEK 主宰
1976年1月12日 東京都小平市生まれ。
生後6ヶ月で血友病と診断され、治療のための輸入血液製剤投与によりHIV感染。1986年、10歳のとき母親から感染を告知される。93年、高校3年生で「薬害エイズ事件」の国と製薬会社の責任を問う東京HIV訴訟の原告に加わり、95年実名を公表。訴訟は96年に実質原告勝訴の形で和解したが、それ以後も現在まで薬害エイズの真相究明と責任を追及し続けている。
98年、東京経済大学を休学しドイツのケルンに留学したが、2000年9月、母親の川田悦子の衆議院議員東京21区補欠選挙への立候補に伴い急遽帰国、日本の現状を変える一石となるため活動中。2003年4月から松本大学、非常勤講師。
主な著書に『龍平の現在(いま)』『薬害エイズ原告からの手紙』(共著)など。
1999年5月からは『龍平通信Raum』を刊行。
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