MESSENGER 陳昌鉉
インタヴュアー:金朋央 photo:李龍泰
―陳さんが出された本「海峡を渡るバイオリン」が、昨年フジテレビでTVドラマ化されました。それが単なるドラマ化ではなく、開局四五周年記念番組として在日のストーリーが取り上げられたことに私は驚きました。とくに昨年頃から日本の中で韓流≠ニいう言葉を何度も耳にするようになっていますが、来日から六〇年経った陳さんの目からは、今のこの変化をどのようにお感じになられていますか?
我々在日は戦前から戦後まで変わらずに来ているような気がする。つまり個人個人が、自分がなかったような気がするんだな。今韓流とか言うけれど、これは決して「在日流」ではないんですよ。在日を通り越した韓流であって、日本人がすぐ身近にいる韓国人、我々に対してそういう熱い思いを持っているかいうと、そうではない。前にNHKラジオ第一の「私の本棚」という朗読番組で「海峡を渡るバイオリン」が取り上げられると、その反響がFAXや電話で結構あったの。その内容が「在日にこういう人がいたのか」とか、「日本人は在日に対して無知だった」、とか、そういうところなんですね。それを見ても、韓流だ、韓流だと騒いでいるけれど、冷静に考えるとこれは在日流ではない、在日とあまり関係ないんですよ。ただ、ぬか喜びしているだけ。
我々の過去と現在の二点をつなぐ線分の延長線上に我々在日の未来があるとすると、在日の未来が明るいとは思えない。少年時代から青年時代、今日までを振り返ってみると、在日が今まで何をしてきたのだろうかと思うんですね。ひどいですよ。どうして在日は現在を大事にしてこなかったのか。六〇年間ずっと在日は自分を知ろうとしないし、発見しようとしてこなかった。ただ二つの大きな組織に自分を預けておいて、ただその流れにしたがって生きてきた。主体的に生きてきたってことがないんですよ。
―ではその「過去」という点については、どのようにお考えになっていますか?
終戦の時はまだ中学校三年でした。福岡の博多にあった大きな朝鮮人の部落で終戦を迎えたけれど、大人が馬鹿騒ぎして喜んでましたね。その光景は、終戦の一日前までと全然違うんですよ。一日でがらっと変わっちゃった。それまで自分を育てるとか、自分たちはどうするべきかとか、我々の歴史はどうなるのかとか、そういったことを聞いたことがなかった。朝鮮人が何百人も生活している中で。それが八月一五日を迎えた途端に、太鼓の代わりに一斗缶を叩き潰したりしながら、狂ったように喜んだ。一日前には、その気配は全くなかった。自分の国の独立がそんなにありがたいのならば、何でその一日前まで、何の前兆もなかったのか。
当時は、朝鮮人がふんどし一枚で石炭をたっぷり持って運んだり、「衛生車」と呼ばれていた人糞運びとか、そういう仕事をしながらの生活の中で、自分達はどうあるか、将来はどうなるのか、そういうのがなかった。ただ終戦で馬鹿騒ぎをした。それで今後我々はどうなるのだろうと思っていたら、多くはすぐに朝鮮に帰った。けれど残った人は、朝鮮人としてもっと自分を取り戻して、自分を強くして、主体的に生きるかといったら、その気配はなかった。全て組織に任しといて、将来のことを考えなかった。ただ、「金」だと。金がないと人間として扱われない、人間としての尊厳を保つためにも金、金ってね。そう考える人が多かった。千葉の国府台にあった朝鮮人の大学生用の寮に入ったのだけど、そこには、早稲田、慶応、東大、明治といった一流大学の学生がいっぱいいた。ぼくにとっては、博多以来二度目の同胞に接した時だった。でも今度は在日のエリート層だったわけ。彼らは夢のある生き方をするんだろうなと観察していたら、がっかりした。夢が無い。所詮前と同じなんだよ。彼らは、自分のために勉強するのではなかった。ただ卒業すれば、組織があるんだと。その時ちょうど民戦(註・在日朝鮮統一民主戦線)から総連に変わる変化期だったけど、マルクスやレーニンばかりだった。ぼくはそういうのは読まなかった。ぼくは太宰治とか、芥川龍之介の本を読んでいると、それはブルジョア文学だと言われるし、バイオリン弾いて、ヘ長調がどうだとかやっていると、お前はブルジョアでどうしようもないと言われる。「祖国は我々人民の幸せのために全てを保障してくれるのだから、こんな勉強はする必要がない」と言う。そんなおかしなことがあるかねと思ったね。祖国は自分の生活まで保障してくれるのか。世界史を見れば、指導者たちが国民の個人の幸せを保障した例はないですよ。結局、何もしないとかっこ悪いから学校に入って、ただ卒業証書一枚もらえればいいんだと思っていたんだろうね。そういう学生がいましたね。
そういう学生たちはよく見合いをしていた。エリートたちだから、話がたくさん来るんだよ。パチンコ屋を何軒も持っているような家の娘とかね。学生たちも、金持ちの娘と結婚して、玉の輿に乗ればいいと思っていた。
―先を見越す余裕がなかったということなのでしょうか?
朝鮮人の歴史は事大主義が強いんだな。政府の提灯持ちになればいい、官僚になればいい、両班になればいいんだと。権威あるものにペコペコして、取り巻き連中になれば結構という。彼らはそういうことを考えていたね。本当に自分が何者かを知り、自分の個性は何か、自分はこういう生き方をしたい、自分を賭けて一生やっていこうと思うものを見つけようとはしなかった。大学の生物科に通うならば、日本一の昆虫学者になるとか、そういう夢を持っていた人はいなかったね。金持ちの娘と結婚できれば生活ができると考える。これは戦前、李朝時代と何ら変わらない。他力本願なんだな。
自分を鍛えなければいけない、ぼくはそう思った。韓国には母が生きているからいつかは帰ろうと思っていたけれど、その時は日本で勉強していたわけだし、まだ日本という相手を知らなかったから、まずは日本で勉強しなければいけない。場合によっては、日本で生きながらえなければならないと考えていた。韓国に一〇〇%帰るあてもないんだから。それで小説とか、歴史の本とか、いろんな本を読んでみた。そこから生活の知恵を得ようと思って。
―その後に、同胞と触れる機会は?
本にも書いてあるけど、四五年前にぼくは木曽福島にいた。そこにあった鈴木バイオリンという工場に、最後となる就職のお願いに行ったけども、そこで断られて、途方にくれて一文もなくなって、結局山奥の林道工事の現場で働いた。ちょうど朝鮮への帰国運動が始まった頃でしたね。その飯場の中に、我々同胞が一〇人くらいいた。日本人が四〇人くらい。日本人は背中に刺青があった。朝鮮の人は刺青はなかったな。ところが夜になると、「さあ、やろう」と言う。何をやるかというと、焼酎をかぶって、指を丸太の小っぱの上に置いて、鉈で指をバーンと切る。この指が五〇万、これは四〇万、三〇万、二〇万と説明して、さあどれを切るか、順番に並べやと。病院は遠くて行かれないから、傷口を縛ってね。アルコールがさめると痛くなるから、飯場の中は一晩中「ウーウー」とうなり声がする。こちらは寝られたもんではなかった。指を切ったようなやつだから、何やりだすかわからないので、ぼくも何も言えなくてね。
なぜ彼らは指を切ったと思いますか?これも同じで、金なんですよ。仕事中の事故ということにして、労災保険をもらおうとするわけ。ヤクザが忠誠を誓うために切るという話があるけど、この人たちは金をもらうためにやる。右手の親指と人差し指二本を除いて全部切っちゃった人もいた。
在日にはお金持ちがたくさんいるけど、みんな自分が楽するために儲けて使ってきた。そういう金がたくさんあるのなら、在日のこどもたちに奨学金という形で還元して、こどもたちが勉強して、実力をつけて、優秀な人になれば、それがまた在日全体に還元され、在日の地位が全般的に上がって、日本人から尊敬される。そういう方向に持っていけたのに、もったいないなと思いますね。
(以下、省略)
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