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K-magazine 第16号
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特集2 戦後60年を在日として迎えて

special 2005年の今年は、戦後そして日本による朝鮮植民地支配からの解放60年目の年に当たる。この年の様々な情勢は、日本と朝鮮半島、中国との間の歴史認識における大きな「分断」が今なお深刻であることを示すものとなった。戦後60年を経た今もなお、アジアと日本の真の和解を実現するには程遠い。

 一方、日本の侵略戦争や植民地支配によって耐えがたい傷を受けたアジアの戦争被害者に対する日本社会の関心が非常に低下している。また、アジアの戦争被害者の存在を歪曲し、彼/彼女らの尊厳を傷つけるような発言すら目立っている。

 植民地支配や侵略戦争の歴史は在日コリアンの歴史でもある。故に私たちは、植民地支配や侵略の歴史を歪めようとするこのような動きを見過ごすことはできない。このような考えからKEYでは7月から8月にかけて「記憶を刻み、共に歩む」と題し、様々な行事を行った。7月2日(尼崎)と16日(大阪市天王寺)には朝鮮民主主義人民共和国に住む元日本軍「慰安婦」を描いたドキュメント映画「アリラン峠を越えて」の上映会を開催し、7月3日(神戸市)、17日(大阪市生野区)には、韓国に住む元日本軍「慰安婦」を描いたドキュメント映画「ナヌムの家」の上映会を開催した。東京では8月28日に「記憶を刻み、共に歩む−戦争被害者の今の声を受けとめる 映画上映会&講演会」と題し、「アリラン峠を越えて」上映会と、在日の慰安婦裁判を支える会で活動されている朱秀子さんの講演会を行った。そして、8月14日には、大阪市北区民センターで「記憶を刻み、共に歩む−朝鮮人被爆者李実根さん語りと新屋英子さん一人芝居『チョゴリを着た被爆者』」と題し、朝鮮人被爆者問題を主題にした行事を開催した。

 この一連の行事の中で私たちが大切にした観点は、植民地支配や戦争によって耐えがたい被害を受けた朝鮮人被害者の視点から歴史を見つめるということであった。その観点が、日本と朝鮮半島、ひいては東北アジア各国と日本との平和な関係構築に向けて重要であると考えたからである。

 今回の特集では、8月14日の行事報告を行うと共に、同日、貴重な講演をして頂いた李実根先生のインタビューを掲載する。私たち在日コリアン3・4世世代はもちろんのこと、日本に住むすべての市民が「今後、何を考え実践していくべきなのか」について考えてみる材料を改めて提起したいと思う。

 


<李実根さんへのインタビュー>

8・14に行った「記憶を刻み、共に歩む 朝鮮人被爆者語りと一人芝居」の中で講演をして頂いた李実根さんから、その際に自身の被爆体験と若者に向けてのメッセージを頂きました。

李実根さん自身の被爆体験について

 当時、朝鮮人も日本人も食糧難で困っている状況があった。田舎でお米を買ってその米を担いで京阪神の都会地で売ると、往復の旅費を引いてもなおかつ少し残り、それが生活の足しになったんですよ。その米も普通の日本人のところに持っていくと米は統制品ですから警察に密告されると罰金を取られて、米は米で没収される。で神戸の長田区に番町という被差別部落のところがあり、そこに持っていくと暖かく向かい入れてくれるし、よそよりもちょっと米を高く買ってくれるし、きちんとやってくれる。安心できるもんですから、そこへ米を持っていって、売ってまた山口県厚狭に一二時間の工程をかけて帰って来るつもりだったんですが、既にその時には広島に原爆が投下されて帰れずに、広島市内を歩いて通らざるを得なかった。というのが、被爆者になった原因です。

被爆の中の朝鮮人

 地獄(被爆地)の中でね、ものすごい朝鮮差別がありました。爆心地から一.二キロのところで、空爆があるので燃えそうなものは先に壊すんですね。家を壊してしまうんです。家が並んでいると、焼夷弾を落とすと燃えるんですね。その延焼防ぐために、そのつぶした家を全部片付けるんです。その片付けの仕事をしていた呉鳳寿(オ・ボンス)さん、去年九三歳で亡くなったんですが、この人は日本人と一緒に働いていて原爆にあったんです。彼は木の影にいた関係で背中一面に火傷を負ったけれども、九死に一生を得て、生き返ったんです。そして川を幾つか渡って、向こうに白いテントが見えて、赤十字マークが見えるから、きっとそこへ行ったら助けてもらえると思って這って行った。でも言葉がよくわからないもんですから、手を合わせて「お願いします。助けてください。助けてください」と言ったんです。そしたらその医者は軍医でしたが、その言葉を聞いて、日本人じゃないとすぐにわかったんですね。そして雷のような声を出して「貴様、鮮人だなっ。ここは鮮人の様な者が来るところではない。帰れっ」と言うんですね。追い返されると、もう生きてはいけないと思って、この額が土に付くほど頭を下げてお願いするんですけども、聞いてくれない。結局追い返されてしまうんです。そういう、鉄も焼け、煉瓦も焼け、瓦も溶けるそういう"地獄"の中でここ七〇年間草も木も生えないという焼土の中で、ただ焼けなかったものがある。漢字で書いて二文字。ひらがなで書いて三文字−「差別」だけは焼き尽くせなかった。その生き残った「差別」がずっと戦後も残って、今日まで、これから先もずっと生き続けるのではないかと。それをいまの若者にも知ってもらいたいと思います。

(以下、省略)


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