特集1 MESSENGER リリアン・テルミ・ハタノさん(大学教員)
■来日するまで
―リリアンさんは現在大学教員としてご活躍されていますが、生い立ちから今現在日本に住むまでの経緯についてお聞かせ下さい。
私の両親は日本人のブラジル移民で、ブラジルで生まれた一世代目である私は二世ということになります。日本に来てからは在日ブラジル人一世とも言いますが、日系ブラジル人二世ということにもなります。日本に来たのは今回で四回目です。幼児期に妹の治療の関係で一年半くらい住んだことがあり、二回目が一八歳の時、三回目が二十歳の時で、大学を卒業して二五歳の時に日本に渡ってきました。両親とは日本語で話す環境の中で育ちましたが、兄弟とはポルトガル語で話していました。私の妹も弟も親とは日本語で話しますが、自分たち同士ではポルトガル語で話します。そういうことで両言語を使う恵まれた環境にいました。
二回目の留学で大学院を卒業した後、就職の話が来まして、迷いましたが学生のままいるわけにはいかないということで就職を選び、現在の仕事をすることになりました
―リリアンさんが日本に学びに来られたのはどのような動機からでしたか?
動機はナイーブです。親は大学に行くなら連邦大学に入らないといけないと小さな頃から言われていました。連邦大学というのは日本でいう国立大学ですが、ブラジルの連邦大学は学費はタダなんです。それで合格したらご褒美として日本に二ヶ月間旅行に連れて行ってくれるという約束をしました。そして合格したので、二度目の日本に観光で来ることになりました。
日本に観光に来て、あなたの従兄弟だ、あなたの叔母さんだと紹介された人たちにもてなされて、いろんな所に行って、美味しいものばかり食べて二ヶ月して帰りました。この世に天国が存在するなら、それは日本のことだと思いました。日本はきれいだし、治安もいいし。この世に天国があるならぜひとも行きたいということで、日本に最初の留学をしました。若かったなあと、恥ずかしくてしょうがないです(笑)。
留学して一週間もしないうちに、どうも観光で来るのと実際に留学して住むのは違うなと気づきました。当然ですけどね。留学してわかったのは、私が欧米系の人といる時と、アジア系の人といる時と、日本人の振る舞いが違う。三人で話す時、日本人の学生は欧米系の人に対して、その人は日本語を話しているんだけど、直接話しかけずに、私が通訳の役割をしたりしました。小さい時の幼いままの日本語で当時話していたので、おかしな日本語というか、はっきりとは憶えていませんが、少なくとも「です・ます」体では話さなかったと思います。大学の先生は、私と話している時、何だか中学生か小学生と話しているようで大学生と話しているとはとても思えないと言い、私の日本語がおかしいのかとショックでした。あと漢字も読めなかったので、バスがどこに行くのかも読めない。聞いても変な顔されるので、だんだん聞かなくなりました。その一週間はいろいろな勉強ができました。こういう時はよく留学生同士で集まって日本の悪口を言うというパターンに陥りがちなのですが、私にも一時ありましたけど、バランスを取ることが大切と考え、最終的にブラジルに帰ることになりました。
二回目の留学に来た時は、日本は天国でもなく地獄でもないと思っていましたし、目標がよりはっきりと決まっていました。当時私は近所の子ども達に日本語を教えていました。その教え子が日本に来る機会があったのですが、私と同じように幼い頃に話した日本語しかできない子どもがどうやって日本で受け入れられるのか知りたいと。それがきっかけですね。
■日系ブラジル人の歴史と現在
―日系ブラジル人がどういう存在かについて知る上で、その歴史についてお話頂けますか?
正式にブラジルが日本人移民を受け入れ始めたのは一九〇八年。だから二〇〇八年にちょうど一〇〇周年を迎えることになります。まずブラジルのことを話すと、アジア系は全人口で占める割合は一%くらい。まず少数派だということがわかります。ブラジルに一九〇八年に初めて渡って、今は五世までいる。ちょうど在日コリアンの歴史に近い。日系移民の歴史と結構近いと思います。
戦中、移民が一旦中断します。しばらく経って落ち着いてから再開されました。戦争以前に移民した人を戦前移民というのですが、今度は戦後移民となります。私の両親は戦後移民なんですね。戦前移民と戦後移民の考え方は全く違います。受けてきた教育も世の中の見方も違うと思います。
戦前教育を受けて海を渡り成功して戻ってこようと思って移民した人と、戦争に負けた後に渡った人とは全然違うし、現地の考え方も違う。もう一つ言えることは、日本とブラジルは直接戦争をしたわけではなく、米国でみたいに敵国人として収容されていたわけではないですが、言葉が通じずに財産を没収されたりした経験はしている。もっと悲惨なのは日系社会が内部で分裂したこと。どのように分裂したかというと、戦争に負けたと認知した「負け組」と、日本は勝ったと思っている「勝ち組」と、認知の差により分裂した。勝ち組の人たちが人殺しまでした。当時、警察沙汰にもなって二十数名亡くなった。勝ち組が負け組を非国民として人殺しまでにエスカレートした歴史も持っている。今となっては誰が勝ち組か負け組かを、わかる人はわかるが、わからない人はそのままになっている。そういう歴史があったことは少しずつ本や小説になっていますし、日系人はそれを話したいかどうかは別として知っています。
それが在日ブラジル人にどうつながっていくかと言うと、日本は戦後どんどん高度成長していき、海外に移民として渡る必要はなくなりました。一方、ブラジルは政策の失敗があったりして経済的に厳しい状況に置かれ、仕事がない状況に陥ります。農業を始めたけど成り立たなくなったり、都会に行っても仕事がなかったりという状況でした。日本は八〇年代にバブル経済に入って労働力が必要になる。それがニーズとなりました。片方は仕事がなくて労働者がいる。片方は仕事があって労働者がいない。そういうことで、日本の企業が八〇年代の半ばに、日本語で発行されている現地の新聞に「日本で働きに来ませんか?」と広告を出します。日本語が読める方ということから日系一世二世が最初やって来た。九〇年に法改正がされてからは三世ですね。二世でも私みたいに日本国籍を持っていない人や三世も増えてきて、ブラジルのパスポートを持っている人で今三〇万人、日本国籍を入れたらどれくらいになるのか。日本国籍者は日本に入国する時日本のパスポートなので、人数は分かりません。
(以下、続く)
■在日ブラジル人の子どもたちの教育と言葉
■名前の問題
■日本の外国人施策のあり方
【リリアン・テルミ・ハタノさんのプロフィール】
1992年にヒオ・デ・ジャネイロ連邦大学文学部英米文学科課程卒業、1993年8月に日本語科卒業。2001年4月、甲南女子大学多文化共生学科専任講師、2004年4月より同学科助教授となり現在に至る。2004年10月から2年間、大阪市外国籍住民施策有識者会議の委員を務める。
大学で指導に当たる傍ら、滋賀県草津市で在日外国籍児童(主に南米日系人)の居場所づくり、日本語学習、学校の宿題の手伝いを目的とする支援グループ「OLIVE KIDS CLUB」(2000年に『子どもくらぶ「たんぽポ」』と改称)を立ち上げ、主に母語(継承語)としてのポルトガル語指導を担当している。
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