[Kカルチャー] 映画
「二重被爆」 青木亮 監督
一九四五年八月六日―――。
一九四五年八月九日―――。
いわずと知れたその日、広島と長崎に原子爆弾が落とされた。それは日本という国にとって、かつての戦争の「被害」の象徴でもある。
タイトルの「二重被爆」とは、この二度にわたって投下された原爆に二度とも被爆したことを指す。二重被爆者の被爆者手帳には手続き上の都合で二回も被爆した事実は全く書かれておらず、最近までその存在はほとんど知られていなかった。私もこの映画を見るまで彼らのことは全く聞いたこともなかった。
「キノコ雲が広島から長崎まで追いかけてきたんじゃないかと思った・・・」
山口つとむさんは造船技師として出張していた広島で被爆した。その後、ひどい火傷を負いながらも何とか帰った故郷の長崎で二度目の被爆をすることになる。本作の大部分は山口さんの語りと他の二重被爆者たちの証言で構成されている。
原爆によって父を亡くした人、被爆したことで死産してしまった人。当時の状況をゆっくりと語る彼らの表情、仕草、刻み込まれたしわ、時折こぼれる涙、その一つ一つに六一年と言う歳月に秘められた深い哀しみが感じられる。「二重被爆」というテーマでこの映画は作られているが、その本質はやはり戦争そのものの残酷さや、矛盾を伝えることにある。
中盤で、スタッフが世界数ヶ所で、二重被爆の事実や体験者の証言を紹介する映像を上映し、その感想を聞いて回る場面があった。アメリカ、フランス、中国。意識的かどうか正確なところは分からないがすべて核保有国というのは皮肉がきいている。賛否両論あったが、印象的だった言葉がいくつかある。
「戦争を終わらせるために広島へ原爆を落としたのは分かるが、なぜ長崎にまで落としたかは理解できない」
「二回も被爆した人はかわいそうだが、日本も戦時中、残虐な行為をしたのだから仕方の無いことだ」
本当にそうなのか?何か重要な部分がすっぽりと抜け落ちている気がした。戦争を終わらせる手段とか自らの加害の報いといったことで、一瞬で何万人も殺し今もなお被爆した人を「殺し」続けている事実を断じてしまってよいのだろうか。
体験者の証言によって伝わる戦争のリアリティも記憶と共にゆっくりと失われつつあるのではないか、おそらくこれが監督の言いたかったことだろう。一方で、監督は彼らの語る声をあえて作品のメインに据えることにより、現実感の喪失に歯止めをかける方法もまた、やはり経験者の話を聞くことから始まるのだと逆説的に表現しているようにもみえる。
私たちは彼らの話を聞きそこから想像力を働かせることでしか、今の戦争やかつての戦争を考えることも否定することもできない。その想像力とは、率直に多くの人の日常や命があっけなく無残に散ったことや、今も傷ついている人がいるということに思いをはせることである。そんなシンプルなことをこの映画を見て改めて考えさせられた。
山口さんは九〇歳。もう若くない。それでも彼は作品の最後に、これからも語り続けていくかと問われたときに、力強く「はい」と答えた。バトンタッチの世代である私たちはこれからも彼らの声に耳を傾けていかなければならないと強く感じた。
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