刊行によせて
政治は二重基準(ダブルスタンダード)に満ちている。その二重基準を正当化するためにマスメディアが情報操作の道具と化し、二重基準を隠蔽する言説が流布される。そのために大学知識人や専門家が動員されることもあるだろう。日本における朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)をめぐる「情報」や言説とは、こうした二重基準の矛盾が最も集約的に表出される〈場〉である。核開発問題では、まるですぐにでも日本が北朝鮮から核攻撃を受けるかのような恐怖を煽る「報道」が繰り返され、北朝鮮バッシングの道具と化す。その一方では、超核大国の米国やロシア、中国の核兵器や大量破壊兵器の存在は不問にされる。また、拉致を「国家テロ」とするこの国の政府によって、北朝鮮の人権侵害が執拗に取り上げられる一方で、日本国内における在日社会に対する民族差別や暴力は見過ごされてしまう。
二重基準の矛盾が表出する〈場〉は、重い沈黙が澱みながら沈殿する〈場〉でもある。私たちは沈黙を強制する、ときに露骨な、ときに陰湿な圧力に無自覚なのではない。しかし非核・非戦、平和、人権を語る大学人やNGOが「北朝鮮問題」は自分の「専門」ではないと言って沈黙し、二重基準の政治に「傍観者」として加担するのだとしたら、私たち自身が二重基準に陥ることにはならないか?
本書は、核や拉致をめぐり派生する、実は私たち自身をも取り込んでいるこうした二重基準を、戦前・戦後を貫く日本の対朝鮮半島政策に深い影を落としつづけ、未だに私たち自身も囚われている植民地主義の視点から捉え返そうとするものである。批判的分析は日本の「多文化共生」論、国際協力や人権分野のNGO、在日社会、改憲論議にも及ぶ。制裁の論理を乗り越える〈市民〉相互の〈連帯〉の思想を紡ぎ直すためには、ただ日朝両政府を断罪するのではなく、日本社会を包み込んでいる現在的な植民地主義批判の作業が欠かせない。
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